森 信三

修身教授録 より

「人間と生まれて」・・我々人間にとって人生の根本目標は,結局は人として生をこの世に受けた事の真の意義を自覚して、これを実現する以外にないのです。・・・そして、お互いに真に生き甲斐があり生まれ甲斐のある日々を送ること以外に無いと思うからです。

「志学」・・ですからいやしくも人間と生まれて、多少とも生き甲斐のあるような人生を送るには、自分が天から受けた力の一切を出し尽くして、たとえささやかなりとも、国家社会のために貢献することが無くてはならぬでしょう。人生の意義と言っても、畢竟このほかは無いのです。・・・そのためには一体いかなる事から着手したらよいかというに、それには何といっても先ず偉人の伝記を読むが良いでしょう。そして進んではその偉人をしてそのような一生をたどらせた真の内面的動力はいかなるものであったかを突きとめるということでしょう。

「人と禽獣と異なるゆえん」・・思うにわれわれが人間として真に正しく道を知る叡智は、ある意味では人間界を打ち超えたところから照射してくるともいえるでしょう。すなわちわれわれは自分の姿を、われとわが心にはっきりと映す鏡のような心にならない限り、真の正しい道は見えないのであります。かくして真の叡智とは、自己を打ち超えた深みから射してくる光であって、わたし達はこの光に照らされない限り、自分の真の姿を知りえないのであります。そうしてかような反省知、自覚知を深めていくことによって、われわれは、初めて万有の間における自己の真の位置を知り、そこに自らの踏みいくべき大道を見出すことが出来るのであります。・・・・かくしてわれわれ人間は、自己がこの世に生まれ出た真の意義を知り、自らの使命を自覚して、いささかでもこれを実現しようとするところに、人と禽獣との真の本質的な違いがあるというべきでしょう。

「道具とコツ」・・・人間も自己を築くには道具やコツが必要です。この場合道具とは読書であり、コツとは実行です。この2つの呼吸がぴったり合ったところに、真の人間は出来上がるのです。

「使者の道」・・・人生の価値というものは、その意義を認めることの深さに応じて現われてくるものであります。したがって人間生涯を通じて実現せられる価値は、その人が人生における自分の使命の意義を、いかほど深く自覚して生きるか否かに比例するともいえましょう。

「一道をひらく者」・・・すなわち我々人間は、真の自己の生活に徹して生きた時、一人自分がその職責を全うし得るのみならず、さらに同じ職域にいる他の人々に対しても、何らかの意義でお役に立つことが出来るのです。

「成形の功徳」・・・常に物事を取りまとめておくということ。内容は同じものでありながら、しかもそれに形を与えるか否かによって、そのものの持つ力に非常な相違が出てくる。何百年も前の手紙などが表装せられて残される事で、我々がこれを拝見できるのもこのおかげ。

「謙遜と卑屈」・・・そもそも謙遜ということは、わが身を謹んで己を正しく保つということがその根本精神をなすのであります。つまり如何なる相手に対しても常に相手との正しい関係において自己をとり失わぬということです。すなわち必要以上にでしゃばりもしなければ同時にまた妙にヘコヘコもしないということであります。してみれば人は、真に謙遜ならんがためには、自ら信ずるところがなくてはならぬのです。すなわち自ら信ずるとは、要するに、自己を取り失わぬということだからであります。したがって必要以上にヘコヘコするのは卑屈ですが、卑屈とは、結局自分が確立していないところから起こる現象でしょう。が同時にまた、相手が目下なればとて、いやに傲慢な態度に出るというのも、これまた自己を取り失ったものでしょう。

「国民教育の眼目」・・・すなわち真の教育というものは、単に教科書を型どおりに授けるだけにとどまらないで、すすんで相手の眠っている魂をゆり動かし、これを呼び醒ますところまで行かねばならぬのです。すなわちそれまでただぼんやりと過ごしてきた生徒達が、はっきりと心の眼を見開いて、足どり確かに自分の道を歩みだすという現象が起こってこなくてはならないのです。(・・つまり志を立てる教育ということか?)

「為政への関心」・・・じっさい我々国民教育に従事するものが、眼前に居並ぶ幼い子供達に対して、男子一生の心血をそそいであえて悔いないのは、他日彼らを通して、二十年三十年の後に、この現実界の一角を改めずんば已まぬという、絶大な願いを内に抱くがゆえであります。

「誠」・・・要するに誠に至るのは、何よりもまず自分お仕事に全力を挙げて打ち込むということです。すなわち全身心をあげてそれに投入する以外はないでしょう。かくして誠とは、畢竟するに“己を尽くす”という事に極まるともいえるわけです。松陰先生は“至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり”とおっしゃっていられますが、諸君らはこれを只事と思ってはならぬのです。自分の全てを投げ出してゆく必死の歩みなればこそ、誠は真の力となるのです。

「死生の問題」・・・われわれ人間は、死というものの意味を考え、死の対して自分の心の腰がきまってきた時、そこに初めてその人の人生は出発すると思うのです。私はわれわれ日本人としては、自分が天から受けた力の一切を国家社会のために捧げ切るところに、真に死生を越える道があると思うのです。わが力を捧げ切ると言うのは、自分の力を余すところなく生かしきるということであって、これは生の徹底ともいえるわけですが、すなわち我々は自己の生に徹することによって生を超えると共に、そこにおのずから死をも超える道が開かれてくるのであります。かくして人生を真に撤して生きる人には、生死はついに一貫となり、さらには一如ともなるわけです。しかし我々人間は、この肉体ある限りはこれを養うためどうしても他から受けなければなりません。ですから人のため更には国家社会のために尽くしたと言っても、他の半面は、その後厄介にならねばならぬのであります。そこで純粋にご奉公ということになりますと、どうしても私は死後のご奉公のほかないと思うのであります。それゆえお互い生きている間は、いわばこの死後のご奉公のためにその準備をしているといえましょう。死後のご奉公とはつまり、生前の生活においていかに深い精神で生き切ったかにかかわてくるのです。

「立志」・・・そもそも真の志とは、自分の心の奥底に潜在しつつ、常にその念頭に現われて、自己を導き、自己を激励するものでなくてはならぬのです。いやしくもひとたび真の志が立つならば、それは事あるごとに常に我が念頭に現われて、直接間接に、自分の一挙手一投足に至るまで、支配するところまで行かねばならぬと思うのです。そもそも人がその一言を慎み、一つの行いをもおろそかにしないということは、その根本において、その人がこの人生に対して志すところが高く、かつ深いところから発するものだといえましょう。

「下座行」・・・このように下座行ということは、その人の真の値打ち以下のところで働きながら、しかもそれを不平としないばかりか返ってこれを持って自己を織り、自分を鍛える絶好の機会と考えるような人間的な生活態度を言うわけです。しかし私は世の中ほど正直なものはないと考えているのです。ほんとうの真実というものは、必ずいつかは輝きだすものと思うのです。ただそれがいつ現われだすか三年五年にして現われだすか、それとも十年二十年たって初めて輝きだすか、それとも生前において輝くかないしは死後に至って初めて輝くかの相違があるだけです。人間も人間の肉体が白骨と化し去った後、せめて多少でも生前の真実の余光の輝きだすことを念じるくらいでなければ、現在眼前の一言一行についても、真に自己を磨こうという気持ちにはなりにくいものかと思います。

「最善観」・・・すなわちいやしくも我が身の上に起こる事柄は、その全てがこの私にとって絶対必然であると共に、またこの私にとって最善なはずだというわけです。それ故われわれはそれに対して一切これを拒まず、一切これを却けず、素直にその一切を受け入れて、そこに隠されている神の意志を読み取らねばならないわけです。したがってそれはまた、自己に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯です。

「二種の苦労人」・・・このように今素質という問題を切り離して考えることにしますと、人が自分を内省して少しでも自分の真実の姿を求めるようになるには、まず道を知るということと、次には苦労するというこの二つのことが大切だと思うのです。すなわち人間は、道すなわち教えというものに出会わないことには容易に自分を反省するようにはならないものです。苦労ということについて気をつけなければならぬのは、なるほど人間は苦労によってその甘さとお目出度さはとれましょうが、しかし、うっかりすると人間がひねくれたり、冷たくなる危険があるわけです。そこで苦労の結果、かような点に陥ることなく、しみじみとした心のうるおいと暖かみが出るようになるためには、平素から人間の道というものについて深く考え、かつ教えを受けておかねばならぬと思うわけです。すなわち同じく苦労しても、教えの有無によって、まったく正反対の人間が出来上がることになります。教えの力というものが、いかに偉大なものかということを改めて考えざるを得ないしだいです。

「真面目」・・・今このまじめという字を真の次に“の”の字を加えてみますと、“真の面目”となります。すなわち真面目の真の意味は、自分の“真の面目”を発揮するということなのです。そもそも我々は自分の真の面目を発揮しようとしたら、何よりも先ず全力的な生活に入らなければなりません。けだし力を離れて自己の真の面目のしようはないからです。力というものは、一端その気になり、決心と覚悟さえ立ったら、後からあとから無限に湧いてくるものです。それはちょうど井戸に水の湧くようなもので、もう汲み出してしまったと思っても、いつの間にやらまた溜まっているようなものです。そこで真面目な生活に入るにあたって大事なことは、力の多少が問題ではなくて、根本の決心覚悟が問題です。しかし時間には明確に限度があるので、時間をうまく使って時間の無駄をしないことです。しかしこの時間の問題も、根本の覚悟さえきまっていれば、わずかな時間も利用できるものです。

「教育と礼」・・・松陰先生は、人間にして爵の尊さを知って、徳の尊さを知らないものはその愚かなことは言うまでもないが、しかし徳の尊さ知って齢の尊さを知らないものは、まだ真の人物とは言いがたいということをその「講孟余話」の中で申しております。(門衛の人への礼)すべて人間というものは、目下のものの欠点や足りなさというものについては、これを咎めるに先立って、果たしてよく教えてあるかどうか否かを顧みなくてはならぬのです。したがって目下のものの罪を咎め得るのは、教えて教えてなおかつ相手がどうしてもそれを守らなかった場合のことです。

「敬について」・・・ところで普通には礼儀を正しくするといえば何か意気地のない人間になることであるかのように考えている人もあるようですが、そうではなくて、礼はその内面の敬の心の現れです。人を敬うということは、それはつまらないことで意気地のない人間のすることでもあるかのように考えられているようですがそれは大間違いです。それというのも自分の貧寒なことに気づかないで、自己より優れたものに対しても、相手の持っているすべてを受け入れて自分の内容を豊富にしようとしないのは、その人の生命が強いからではなくて逆にその生命がすでに動脈硬化症に陥ってその弾力性と飛躍性を失っている何よりの証拠です。真に自分を鍛えるには、単に理論を振り回しているのではなくて、すべての理論を人格的に統一しているような、一人の優れた人格を尊敬するに至って初めて現実の力を持ち始めるのです。同時にこのように、一人の生きた人格を尊敬して自己を磨いていこうとし始めた時、その態度を「敬」というのです。

「批評的態度というもの」・・・かようなわけで批評ということはともすると悪口や非難に陥りやすいものですが、仮にそうならずに正当な意味で行われた場合でもそれはともかく傍観的な態度にとどまって、真に自己に吸収して自分を太らすという態度にはなりにくいものです。食物でも単に品定めをしている間は決して腹のふくれるものではありません。ですから単に傍観的に眺めていないで、自分の欲するものは全力を挙げてこれを取り入れるようにしてこそ初めて自己は太るのです。そこでまた言い換えますと、人間は批評的態度にとどまっている間は、その人がまだ真に人生の苦労をしていない何よりの証拠だともいえましょう。もちろんその人の性質にもよるでしょうが、ともかく自分は懐手をしていながら人の長短をとやかく言うているのは、まだその心に余裕があって、真の真剣さには至っていないと言ってよいでしょう。それはちょうど食物などでもかれこれと好き嫌いをならべていられる間は、まだ真に飢えの迫っている人ではないわけです。人間が真にせっぱ詰まったならば、そういう贅沢は言えないのです。

「一日の意味」・・・今さら事新しく申すまでもありませんが、今日という日は一日に限られているのです。人間の一生もまた同様です。そこでよほど早くからその覚悟をして少しの時間もこれを生かす工夫をしていないと、最後になって慌て出すことになります。ですから諸君らにも、もしその日の予定がその日の内に果たせなかったら、自分の一生もまたかくの如しと考えられるがよいでしょう。そこでまた我々は死というものを一生にただ一度だけのものと考えてはいけないと思うのです。それというのも実は死は小刻みの日々刻々と我々に迫りつつあるからです。ですからまた我々が夜寝ると言うことは、つまり日々人生の終わりを経験しつつあるわけです。一日に終わりがあるということは、実は日々“これでもかこれでもか”と死の覚悟が促されているわけです。しかるに凡人の悲しさは、お互いにそうとも気づかないで一生をうかうかと過ごしておいて、さて人生の晩年にいたっていかに嘆き悲しんでみたところで今さらどうしようもないのです。そこで一生を真に充実して生きる道は、結局今日という一日を真に充実して生きるほかはないでしょう。実際一日が一生の縮図です。我々に一日という日が与えられ、そこに昼夜があるということは、二度と繰り返されることのないこの人生の流れの中にある私たちを憐れんで、神がその縮図を誰にもよくわかるように示されつつあるものとも言えましょう。では一日を真に充実して生きるのはいったいどうしたらよいのでしょう。その秘訣としては私は、その日になすべき事は決してこれを明日に延ばさぬ事だと思うのです。論語にある「行って余力あらば以て文を学ぶべし」の通り、なすべき仕事をなるべく早く仕上げて、十分の余力を生み出して大いに読書に努むべきでしょう。ではなぜ読書の必要があるかと申しますと、人間は読書によって物事の道理を知らないと、真の力は出にくいものです。道理を心得ての実行は、その実行によって会得した趣を、ほかの人々に分け与えることもできるのです。ところが道理知らずの実行は、その収穫はただ自分一身の上にとどまるのです。しかし又実行という土台の上に立って初めて読書もその効果を生ずるわけで、それが孔子の言う「行って余力あらば以て文を学ぶべし」といわれた所以でしょう。

「置土産」・・・我々人間として最大の置土産は、なんと言ってもこの世を去った後に残る置土産だと言うことも忘れてはならぬでしょう。実際私の考えでは、人間というものは、この点に関して心の目が開いてこない限り、真実の生活は始まらぬと思うのです。我々が生涯をかけて真に道を求めようとする態度は、実にこの一点に対して心の目が開けてきてからのことだと言ってもよいでしょう。と申すのも、我々人間の生活は、生きている間は厳密には真の献身とは言いかねるともいえましょう。それというのも、我々は少なくともこの肉体のある間は、これを養うために多くの方々のお世話にならなければなりません。私どものこの世の中というものは、お互いにもちつもたれつの相対的な世界であります。それ故この肉体の存する間は、純粋に人様のお役に立つことはできがたいとも言えましょう。そこで、この世を去った後の置土産になって初めて、純粋に人々のご用に立つと言い得るかと思うのであります。

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吉田松陰 留魂録より・  ほか

吉田松陰 留魂録より

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身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置まし大和魂

十月念五日    二十一回猛士

※吾の得失当に蓋棺の後を待ちて議すべきのみ・・私の人間としての在り方がよいか悪いかは棺の蓋をおおった後、歴史の判断にゆだねるしかない

※今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり・・今日私が死を目前にして平安な心境でいるのは春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである

※義卿三十、四時己に備わる 亦秀で亦実る・・私は三十歳、四季はすでに備わっており花を咲かせ実をつけているはずである。だから安心して死を迎えている。

※万巻の書を読むに非ざるよりは 寧ぞ千秋の人たるを得ん・・沢山の書物を読まなければ、永年にわたって名を残す不朽の人となることは出来ない。

※一己の労を軽んずるに非ざるよりは 寧ぞ兆民の安きを致すを得ん・・自分で労を惜しまずに働く人でなければ、どうして天下国家の民を幸せにできようか

※皇神(スメカミ)の誓ひおきたる国なれば 正しき道のいかで絶ゆべき・・天照大皇神の神勅のある以上は、日本は滅びはしない。だから正しい道を貫き通さねばならぬ

※世の人はよしあしことも言わば言え 賎(シズ・自分を下げた言い方)が誠は神ぞ知るらん・・ペリーの船から降ろされ、浜で失意の内に詠んだ

※かくすればかくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂・・下田の獄から江戸へ押送されるとき、泉岳寺の前で、赤穂義士の霊に手向けた詩

※歳月は齢と共にすたるれど 崩れぬものは大和魂・・松下陋(ロウ・小さい)村なりといえども 誓って神国の幹となさん・・・共に再び野山獄へ投ぜられるときの詩

高杉晋作から質問された〝丈夫の死〟について松蔭の回答…・・・「・・死は好むべきに非ず、亦悪(ニク)むべきに非ず。道尽くして心安んず、使ち是死所。死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。僕が所見には生死は度外に措きて、唯言ふべきを言ふのみ」

ほかの人のサイトに載っていた松蔭の名言です。借りてきました。

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二宮 尊徳 (金次郎)

明治天皇が買われた金次郎像

 

報徳訓

父母の根源は転地の令命にあり                            身体の根源は父母の生育にあり                            子孫の相続は夫婦の丹精にあり                            父母の富貴は祖先の勤功にあり                            わが身の富貴は父母の積善にあり                            子孫の富貴は自己の勤労にあり                            身命の長養は衣食住の三つにあり                           衣食住の三つは田畑山林にあり                            田畑山林は人民の勤耕にあり                              今年の衣食は昨年の産業にあり                                    来年の衣食は今年の艱難にあり                              年年歳歳報徳を忘るべからず

貧富訓

遊楽分外に進み 勤苦分内に退けば 即ち貧賤其の中にあり            有楽分内に退き勤苦分外に進めば 即ち富貴其の中にあり

万象倶徳(報徳博物館元館長、佐々井典比古)

どんなものにもよさがある どんなひとにもよさがある                    よさがそれぞれみなちがう よさがいっぱいかくれてる                               どこかとりあがあるものだ もののとりえをひきだそう                              ひとのとりえをそだてよう じぶんのとりえをささげよう                            とりえととりえがむすばれて このよはたのしいふえせかい

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