毎年この日はとても暑い日になります。今年は曇りの多い夏ですが、やはりこの日は一番の猛暑日となりました。わたしはここ数年、自分で仕事を始めてからは時間の自由が利くようになったおかげもありまして、毎年靖国神社におまいりしています。毎年あまりにも暑いので、一昨年前からは早朝に行くことにしています。朝7時台に参拝すると、まだそれほど混んでもいんなく、すずしい中でゆっくり参拝できます。賽銭箱に上げるお賽銭は、些少ですが持参した奉納袋に入れて投げますが、一応その奉納袋に、昭和19年4月22日にニューギニアで戦死した祖父の名前と、わたしの住所氏名を書いておきました。岡山にある父の実家のお墓にはめったに行けないので、祖父の墓参りのつもりで毎年靖国へ参拝にゆきます。驚くのは、靖国神社はとても律儀でして後日小さなお守りが我が家に届きます。よけいな手間をかけさせてしまって恐縮しますが、頭が下がります。
突然ですが・・・
A級戦犯が合祀されているから靖国神社への参拝を控えることに関しての反論です。A級戦犯そのものがサンフランシスコ平和条約締結後すぐに、サンフランシスコ平和条約第11条に基づき、戦後連合国側の関係11カ国の同意を得て、日本の国会決議でA級戦犯は釈放され、無罪化を果たした。同様にB・C級も無罪化されたが、当時の国際社会からは何の批判も出なかった。東京裁判自体が国際法に基づかない身勝手な裁判である事を世界は理解していて、その判決内容を変更または停止することを11条で予め承認していたのです。ですから条約締結後速やかに11カ国の同意を得て、戦犯を無罪化できたのです。この史実をすっ飛ばして、しいて言えば旧A級戦犯を語って欲しくありません。確かに日本を間違った戦争へ舵きりをした指導者達の罪は重い。根拠の無い東京裁判とその判決を無かったものと考えて、その指導者達をどう扱うかを議論することはあっても良いと思のが私の結論です。
もう一つ、簡単に。日本国においては八百万の神様をあがめ奉る神道は、仏教やキリスト教やその他多くの宗教のように、教団を組織して経典や教祖を持つ多くの宗教とは全く別物であるということ。自然崇拝や土着の信仰は世界中どこにでも元始の時代より人間と共にあったもので、日本の神道はまさにそれ。これを否定することは人間の本質根源を否定することで、人と機械の区別をつけないことに等しい。政治家やましてや天皇陛下までもが靖国神社に参拝できないことを正当づけられる明確な根拠は私には想像がつかない。感情論だというなら配慮も必要と考えるが、あたかも正当性があるように主張されると納得が行かない。
我国にとって、子々孫々の事まで見据えた上で、抑揚制御可能な強い情熱と、理路整然を愛する偏らない明晰な頭脳を持ち寄って、これらの問題を解決してゆくことが必要ですよね。
長岡さん、お疲れ様です。
いつもご活動、ご提言を拝読しております。
私は、血縁の比較的近い親族は、先の戦争で戦死しておりませんが、
血縁のない親族(血縁のある親族の配偶者など)の中には、
戦死者もおり、その中には、
広島で被爆死した軍人将校もおります。
※私の祖母は、その軍人親族の安否の確認に、原爆投下の二日後の広島に行っております(当時、祖父すでに他界)。
そのような私、また、
我が国の歴史を愛する私にとり、
靖国神社は、
戊辰戦争以来、国のため兵火に命をささげた侍を祀る社、
士道を奉上する社という認識でおります。
そこには、私が愛する侍である、
時山直八や西郷吉兵衛隆弘がおります。
他方、最後の武士(ラストサムライ)といわれる河井継之助や上野の役など
で亡くなった、水戸学徒や三計塾徒などはそこには祀られていません。
このような複雑な状況ではありますが、
我が国の守っていくべき価値、
士道、儒教の価値と
政治軍事など、
国家運営の今後の大いに教訓とすべきところをよく思考して、
戊辰以来の戦没者の御霊に謝意を奉げるべきと
日頃より思っております。
靖国神社の在り方や
戦没者の御霊への応えは、大いに議論、思考して、
国家国民の力の維持向上につながるような、
よりよい形になればと考えております。